AIを試した組織が活用を広げられない理由
AIを試すことと実際の業務に定着させることは違います。トウモロコシ種子の普及研究とジェフリー・ムーアのキャズム理論を通じて、次の利用者が求める根拠を見ていきます。
社会AIを試すことと業務に定着させることの違い
AIを一度使ってみることと、毎日の業務に任せることは別の決定です。試すときは回答がどれだけもっともらしいかを見ればよいのですが、実際の業務ではその誤りを誰が確認し、コストがどれくらいかかるのかまで検討しなければなりません。
この違いを考えるうえで参考になる研究があります。1940年代、アメリカ・アイオワ州の農家が新しいトウモロコシの種子を受け入れていく過程を調査した研究と、技術製品が初期顧客を超えて広がっていく過程を扱ったキャズム理論です。
まずAI調査で何が問われたのかを見てみましょう。**マッキンゼーの2025年調査では、回答者の88%が、所属組織が少なくとも一つの業務でAIを定期的に使っていると答えました。**組織レベルでAI活用を拡大し始めたという回答は約3分の1でした。マッキンゼー調査
デロイトの2026年調査では、回答者の25%が、所属組織のAI実験のうち40%以上を実際の運用に移したと答えました。ここでの40%は企業の割合ではなく、各組織で運用に移したプロジェクトの割合です。PwCの2026年CEO調査では、56%が過去12か月間でAIによる売上増加とコスト削減の両方を経験していないと答えました。業務スピードや従業員満足度まで含めて何の効果もなかったという意味ではありません。デロイト調査、PwC調査
それぞれ異なる対象に異なる質問をした調査ですから、数字をそのまま差し引いてAIの失敗率を計算することはできません。ただ、導入の有無と活用範囲、財務成果を別々に確認する必要があるということは示しています。私はこのうち活用を広げる問題を、ジェフリー・ムーアの『Crossing the Chasm』と結びつけて考えてみたいと思います。
農家はどんな根拠で種子を変えたのでしょうか
キャズム(chasm)とは、初期の顧客の支持を得た技術製品が、より広い顧客層へと広まる過程でつまずく段階を指します。その背景には、新しい技術が人々の間に広がっていくプロセスを研究したイノベーション普及理論があります。
1941年、アイオワ州立大学の社会学者**ブライス・ライアン(Bryce Ryan)と大学院生ニール・グロス(Neal C. Gross)**は、二つの農村地域で交雑トウモロコシ種子の普及過程を調査しました。当時、農家は収穫量や栽培性能が改善された新種子に触れていましたが、導入時期はそれぞれ異なっていました。
ロジャーズがまとめた研究過程によると、グロスは農家345人と面談し、研究条件に合致した259人の回答を分析しました。このうち257人が1928年から1941年の間に新種子を採用していました。種子を最初に知ったきっかけとしては販売員が、導入を決断する際に影響を与えた経路としては近隣の農家が頻繁に挙げられました。新種子の利点を耳にすることと、自分の畑に植えることを決めることの間には、他人の経験が介在していたわけです。

キャズム理論の概念図です。アイオワの農家を対象にした実際の調査数値を描いたグラフではありません。
1943年に発表されたこの論文1は、その後のイノベーション普及研究の重要な出発点となりました。**エベレット・ロジャーズ(Everett Rogers)**は関連研究を総合し、1962年に『Diffusion of Innovations(イノベーションの普及)』を出版しました。ロジャーズは、新しいものを相対的にいつ受け入れるかによって、受容者を五つの集団に分類しました。
- イノベーター(Innovators)、2.5%: 新しい技術を最も早く試す集団です。
- アーリーアダプター(Early Adopters)、13.5%: 比較的早い時期に受け入れ、周囲の人の判断にも影響を与える集団です。
- アーリーマジョリティ(Early Majority)、34%: 平均より早い時期に導入するものの、他の利用者の経験を慎重に見極める集団です。
- レイトマジョリティ(Late Majority)、34%: 周囲に広く普及し、導入の不確実性が薄れた後に受け入れる集団です。
- ラガード(Laggards)、16%: 当該技術を最も遅く導入する集団です。
この比率は、導入時期を正規分布に沿って区分した理論上の分類です。すべての市場で同じ比率が現れるわけではなく、一人の人間がすべての技術について同じ集団に属するわけでもありません。時間の経過とともに累積受容者数を描くと、しばしばS字曲線が現れます。上図のように時期ごとの受容者を区分した釣鐘型の曲線とは、縦軸が異なります。
このモデルを技術製品のマーケティングに応用したムーアは、特にアーリーアダプターとアーリーマジョリティの違いに注目しました。最初に購入した顧客が気に入った理由だけでは、次の顧客を説得するのが難しいというのです。
ジェフリー・ムーアが見出したキャズム
ジェフリー・ムーアは、スタンフォード大学でアメリカ文学を学び、ワシントン大学で英文学の博士号を取得しました。大学で教えた後、技術企業の営業・マーケティングに転じ、レジス・マッケナでマーケティングコンサルティングを行いました。製品の技術的特徴と顧客の購買理由をあわせて扱う仕事をしてきた人です。
製品をつくるチームは、新しい機能を強調しがちです。しかし購入する側は、その機能が自分の業務で役に立つのか、導入した後にサポートを受けられるのかをまず確認します。ムーアの主張は、こうした購買基準の違いを理解してこそ、次の顧客にも売れるようになるというものです。
ムーアは1991年に『Crossing the Chasm(キャズムを超えて)』を出版しました。この本は、初期の顧客に通用したマーケティングを、そのまま主流顧客に繰り返したときに生じる問題を扱っています。
彼がキャズムと呼んだのは、アーリーアダプター(初期採用者)の市場から、実用性を重視する主流顧客の市場へと移行することが難しい区間です。すべての製品が同じ時点で経験する法則というよりは、技術企業が市場を広げる際に点検できる説明の枠組みです。
ムーアの説明によれば、先見的な採用者は、まだ完成されていない技術であっても、将来得られる利益が大きいと見れば導入します。自ら問題を解決しながら製品を使いこなす意向も持っています。
一方、主流顧客は、類似の業種・業務における実証済みの結果をより重視します。技術に明るいチームが特別な努力を払って成功させた事例だけでは、自分たちの組織でも使えると確信するのは難しいというわけです。必要な設置・教育・サポートまで揃っていて初めて、購入を決断できるということです。ムーアの書籍紹介

次の顧客が使える製品を作るには
ムーアが強調した狭い顧客層の選択と完全な製品という概念をもとに、私は市場拡大において検討すべきことを四つに整理してみました。テスラの事例は、この考え方を説明するために付け加えた事例です。
第一に、まず解決すべき顧客の課題を絞り込む必要があります。 どの業種のどの業務を解決するかを定め、その顧客が実際に使える製品を作ることです。その後、似たようなニーズを持つ顧客へと広げていくことができます。テスラも最初からすべての車格を同時に投入したわけではありません。2006年のマスタープランは、高価格帯の電気スポーツカー「ロードスター」から出発し、より安価な車種へと拡大していく計画を示していました。
第二に、購入目的を達成するために必要な支援まで揃える必要があります。 ムーアはこれを完全な製品(whole product)2と説明しています。電気自動車を買う人にとっては、車両そのものだけでなく、充電できる場所や整備を受けられる場所も必要です。テスラが車両販売とともにスーパーチャージャーネットワークを構築した事例は、この観点から捉えることができます。
第三に、使い続けられるという信頼を与える必要があります。 他の製品と互換性があるか、供給元が今後も支援を続けるか、周辺の事業者も同じ技術を使っているかが購入判断に影響します。テスラが2014年に発表した特許方針も、電気自動車関連技術の活用を広げようとする試みでした。一定の善意の利用条件を満たせば特許訴訟を起こさないという約束であり、特許権そのものをすべて放棄したわけではありません。
第四に、最初に導入する際の負担を減らす必要があります。 価格だけでなく、習得にかかる時間や既存のやり方を変えるコストも考慮すべきです。テスラが車種を広げてより低価格帯の顧客を狙ったのは、価格負担を下げる事例です。業務用ソフトウェアであれば、既存システムと連携させたり、一部の業務からまず試せるようにしたりする方法があるでしょう。
Oswarldの視点
私がキャズム理論において重要だと考える問いは、最初に成功した顧客と次の顧客に必要な条件が同じかどうかということです。初期の熟練したユーザーが自ら解決していたことを、次のユーザーにも同じように求めていないか、見極める必要があります。
AIにおいてもこの問いは有効だと考えています。メンロベンチャーズは、2025年の企業向け生成AI支出を370億ドルと推定しました。同じ範囲で再計算した2024年の115億ドルと比べると、約3.2倍の規模です。これは米国企業のAI担当者495人へのアンケートと市場分析を組み合わせた推定であり、半導体や推論サービスへの支出などは含まれていません。投資が増えていることを示す資料ではありますが、先ほど見たPwCの調査のように、個々の企業が実際に財務成果を上げているかどうかは別途確認する必要があります。
市場の顧客層間での普及と、一つの会社の中でAIの活用を広げることは、同じではありません。それでも両方のケースにおいて、次に使う人が何を懸念しているのかを確認しなければならないという点は共通しています。AIを作ったチームにとって簡単な作業でも、現場の従業員にとっては難しいことがありますし、誤りが生じたときに責任を負う立場の人は、より厳格な根拠を求めることもあるでしょう。
企業のAI活用を広げるとしたら、私はまず次の四つを確認します。
- 業務範囲: 顧客問い合わせの分類やコードレビューのように具体的な業務を選び、処理時間や誤り率が実際に改善されるかどうかを確認する。
- 運用の準備: 必要なデータを連携し、アクセス権限や従業員教育、問題が発生した際の対処方法を併せて用意する。
- 評価基準: どのような結果を合格とみなすかをあらかじめ定め、同じ基準で前後の結果を比較する。
- 導入負担: 人が確認する補助作業から始められるかどうかを見極める。自動実行を増やす際には、それに見合う統制も備えなければならない。
アイオワの農家を対象とした研究において近隣の経験が重要だったのと同じように、似た業務から得られた結果はAI導入の判断にも役立ちます。ただし、他組織の成功をそのまま持ち込むのではなく、データや人員、運用条件がどれほど似ているかを確認する必要があるでしょう。
モデルの性能が不足しているなら、モデルを改善するか変更しなければなりませんし、連携すべきデータや検討手順が不足しているなら、その部分を補わなければなりません。様子見をしている人を説得することと、実際に導入できる条件を整えることは、並行して進めるべきだと考えています。
おわりに
新しい技術の初期の成功を広げるには、次に使う人の業務を理解する必要があります。何を自分たちで直接解決できて、どこで支援が必要なのか、どのような結果を見れば使い続けるのか、具体的に聞いてみる必要があります。
私は、複数の部署にAIを一斉に導入する前に、一つの業務で成果と運用負担を併せて確認するほうがよいと考えています。その結果をもとにどこまで広げるかを決めれば、他の部署にも利用を勧める根拠が生まれます。
参考資料と関連リンク
- Geoffrey A. Moore、Crossing the Chasm。初期採用者から主流顧客へと市場を広げる方法を扱っています。
- Bryce Ryan & Neal C. Gross、The Diffusion of Hybrid Seed Corn in Two Iowa Communities、Rural Sociology 8、15–24、1943。アイオワの種子普及研究の書誌情報です。
- Everett M. Rogers、Diffusion of Innovations, 5th Edition、2003。出版社公開の抜粋文でトウモロコシ研究の調査・分析対象と結果を確認できます。
- McKinsey、The State of AI in 2025。AIの利用範囲と拡大段階を調査しています。
- Deloitte、State of AI Report 2026。AI実験を実運用へ移した割合を扱っています。
- PwC、29th Global CEO Survey、2026。AIによる売上とコストの変化を尋ねています。
- Menlo Ventures、2025: The State of Generative AI in the Enterprise。企業向け生成AI市場の推計値と集計範囲を説明しています。
- Tesla、2006 Master Plan、Patent Pledge。製品拡大計画と特許政策の条件を確認できます。

筆者アン・グァンソプ(安光涉)は世宗大学校経営学科教授であり、INLEVEL9のリードコンサルタントである。大学では経営データ管理、ビジネスアナリティクスなど統計およびデータ分析を教える一方、現場ではGTM戦略と人工知能戦略コンサルティングを率い、技術とビジネスの接点を設計している。AI対話システムの記憶アーキテクチャ(HEMA)研究で学術論文を発表し、毎日グローバルなAI論文をキュレーションするDaily Arxivプロジェクトを運営している。高麗大学校技術経営専門大学院修士課程とKMBAを修了。著書に《思考を委ねる人々:ホモ・ブレインレス》がある。

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